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スタッフ雑記 20130428 「土地々々のお葬式事情」

まだ父が生きているのに、
亡くなった時の準備をすることは・・

病院の外に出てその電話を
してこなくてはならなかった時、
病室に戻って父の顔を見たときに

なお、父を裏切っているようにも、
(父がそれを知らないにしても)
申し訳なくも感じました。

が、そう思ってしまうことのほうが、
より、悪いようにも思い、

毅然と振舞っていたように
思います。

姉と相談し
安曇野では
「家族葬」にし、

札幌で
「偲ぶ会」を改めて
行おう、ということになりました。

プチ認知症の母は、
まだ父の死期のことが
理解できず、

お葬式、色々なことは
姉と私の判断で進めることに
なりました。

特に安曇野でのことは、
私主流で動かなければ
なりませんでした。

半年前に叔母さんの
「家族葬」を執り行った
Gさんの紹介で

お葬式会場Sホールを
訪れました。

そこにはGさんの知り合いの
送り人のプロ

ーあくまでも亡くなった方に
敬意を払い、遺族の方々にも細心の
お心遣いをして、
心を込めて葬儀を
執り行ってくださる方ー

Rさんがいました。

たくさんのお取り計らいの
打ち合わせのなかで、

長野県のお葬式事情を
聴きました。

お通夜が終ったら荼毘に伏し、
お骨で告別式を執り行うー

ー以前知り合いの告別式に
 参列したときすでに
 お骨になっていることに
 びっくりしましたー

それはこの土地は昔から
農業で忙しかったり、
雪も多かったため、
すぐにお弔いに
駆けつけることができない、

そのためすぐにお骨にするという
風習?ができたそうな。

そしてお葬式に来ていただいた方々に対し
たくさんのご馳走。

弔問客が帰ったあとに
ご馳走がたくさん残っている
ことが、
ーたくさん残るくらいご馳走を出すー

そのことが「良いお葬式」が
できた、ということらしい。。

同じ長野でも土地々々により、
ご馳走が招待制のところもあり、
招待された方は、
お香典とはまた別に
お包みすることになっている。

北海道のお葬式は、
弔問に来ていただいたら、
最後まで椅子に座り、参列していただき
告別式が終ったら火葬場に行きます。

一般の方にふるまいは
ないです。

そしてお香典のお返しは
いくらいただいても、
「海苔」「ハンカチ」「お茶」等1個
だけです。

ここはかなりお返しいたします。

東京にいたときは
忙しい?土地が狭い?
事情でしょうか?

(流れ作業みたい)お線香をあげたら、
違う会場に移りーお清め場ー

お料理に少しいただいたら
すぐに帰る、
ということに、
びっくりした記憶があります。

ただ、北海道のお葬式スタイルは、
全国の葬儀屋のモデルらしく、

映画「送り人」は
北海道のある葬儀屋を参考に
したらしい。

北海道人はほとんど入植者で
昔ながらのもの。。や、
歴史がない分、
しがらみがなく、新しい方法などを、
取り入れ易かったのでしょう。

結婚式もそうです。
北海道は、「招待制」ではなく
「会費制」です。

お祝いはあげたい人が別に
あげます。

打ち合わせの最後に、

「夜中でもいつでも
 迎えにいきますから
 電話ください」

と、伝えられました。

そこが最初で、現実でした。

悲しんではいられないお役目。

もう「準備して父に悪いなぁ」
なんて段階ではなくなりました。

予め「滞りのない送る準備」を
することは、

残った者の必ず来るその日のための、
心の準備でもあり心構えなんだろうなぁ、

何かに動かされているような、
何事もスムーズに準備が進み、

変な話しですが、

「清々しい気持ち」

になったことが思い出されます。

天も父のことを準備して
待っていてくれていたの
かもしれません。



2013年4月28日 09:15

スタッフ雑記 20130425  「父・・準備」

9月の末に「療養病棟」のある
Y町の病院へ父は転院しました。

療養病棟は治療目的ではなく
痛みなどを緩和するための処置を
する病棟です。

先生、看護婦さんは、
一目みて「思っていたより重症」
父はもう近い・・ことを
宣告されました。

そして
「嫌なことだけど、
 送る準備をしておいてください、
 慌ただしくその時バタバタしないために、
 お父さんのためですよ」
と言われました。

「でもお父さんは幸せですよ、
 ここは亡くなっても市役所の人が
 引き取りにくる人が多いんですよ」
と言っていました。

身動きできないお年寄りが多く、
なにか言いしれぬ「気」が
漂っていました。

前の病院とは全く
雰囲気が違いました。

前向きにリハビリして
退院させる病院、

死を迎えるための
病棟。。

ホスピス。

最高のホスピスは自宅。

なのだろうが、

安曇野の自宅に帰ろうか、
と、父に言っても

家族に迷惑かけること、
何よりも、いざという時の
処置のために
父はあくまでも病院に
いたいと言いまいした。

私たちがずっと付き添っていても
父はナースコールのボタンを
常に脇に抱えていました。

「梅ちゃん先生」のドラマの中で
癌患者を自宅で診療し、
最後に自宅で看取っている
場面がありましたが。。

私も経験がないので、
不安もありましたし、
どうしても連れて帰るという、
自信もありませんでした。

実際そう簡単なもので
無かったのは後でわかりました。

それから父の
「送る準備」が
始まりました。



2013年4月25日 05:48

スタッフ雑記 20130423 「父・・危篤?」

父はその後、療養病棟のある
病院に転院するのですが、

この救急病院で
2度程危篤になりました。

1度目は、
北海道から
姉と母が来た時でした。
(母は札幌が恋しくなり8月にはいり
  札幌へ一時帰宅していました)

母姉がきて3日ほどたったときでした。

夜病院から帰るときに私たちに
父が
「3人で美味しいものでも
 食べて帰ったら?」
と、珍しく話しかけたのでした。

なにかそうした方がいいような
気がして、
3人で帰りにレストランに
寄りました。

そこで色々な話に
なりました。

私たちが父の寿命を認識し、
心穏やかすること。

父への感謝。

もう頑張れとは言わない。

それが父が安心して逝けること。

そして父の想いを話しながら
みんな感謝で泣いていました。 

ふと、(こんなスチエーションになり)
「もしかしたら父は明日
 逝ってしまうのでは・・」
 と、思いました。

次の日、
病院へ向かう途中
「容体がおかしいから
 早く来てください」
と、病院から連絡が入りました。

いくと父は酸素マスクをして、
はあはあと苦しそうにしていました。

血圧も下がりもうだめだ。。
と、思いました。

後から来る予定だった姉と母に、
学校に行っていた子供達も早引きさせて
早急に病院にくるよう連絡しました。

その間わたしは父の手を取り、

「お父さんありがとう。。
 昨日みんなでご飯食べてお父さんに
 感謝していたんだよ・・」

合わせた父と私の手は
汗ばんでいました。

しばらく父は黙っていたのですが、

ちょっと間をおいてから・・

「いい!」と言って

私の手を振りほどき。。。

何をしたかというと。。

汗ばんだ自分の手を

布団にぬすくったのでした・・・!

はぁ~~~~~!!

・・・・・・

。。。なんて言えばいい!!

この、い~場面で!・・?

一気に力が抜けました。

その後みんな来て、

姉も母も
感謝の言葉をかけていました。

子供達は。。
なにか・・
こんなもんなんでしょうか・・

「お腹すいた~」

姉が付いてるとのことで
私たちは売店でお昼を買って
休憩所におりました。

その後病室に行ったら
姉の話。。

姉も泣きながら父に
「ありがとう」
って、言おうと思った瞬間

それまでハアハアいっていた父が

目をギョロと開け、

「今何時だ?」

「12時だよ」
と、言うと、

「お昼を食べなきゃ」
と、いったそうな。

姉も看護婦さんもびっくりして
「無理です、点滴にしましょう」
と言うと、

「点滴は効果がない、
 食事は抜きませんよ」

といい、

ベットを起こしてもらい、
ぜりー、チョコパン、ヨーグルトを
食べ、
オレンジジュースを飲みました。

その後安定してきて父は
復帰したのでした。。。

・・・・・・

なんて日だ!

その2日後
朝早く病院から
危篤の連絡が入り、

急いでいくと、
看護婦さんが

「ごめん!あれから又
 食事するっていって
 無理!って言ったのですが・・
 食べたら。。復帰しました」

父は食べること美味しいもの大好きな
グルメ人間でした。

父をこの世に引き止めているのは
美味しいもの??

この時から姉と私の交代の
24時間付き添いが始まりました。



2013年4月23日 12:38

スタッフ雑記 20130422 「父・・Ⅲ」

水を張った田んぼには
うっすら氷が張っていました。

安曇野の桜はもう
葉桜になっています。

昨年の日記を見ると、
昨年は4月の25日に花見をしていました。

写真には安曇野の楽しい仲間、
そしてジジババ、

ー父は満開の桜の木の下で
ずっと横たわっていました。

腰が痛いとしきりに言って
いたのもこの時期です。。。

5ヶ月あまりのうちに
痛みは背骨に進行しました。

緊急入院してから
背骨の痛みを取る治療として
放射線治療がありました。

1回のみの放射。

父がこの放射線治療をしている間、
放射線の先生と話をしました、

「父はガンで亡くなるというより、
 もう体がボロボロで老衰だと思います」

という私の言葉で、

先生は、ぶっちゃけ。。な
話をしてくれました。

「もう腎臓が働かなくなってきている。

 そのうち、水毒症になり意識が朦朧として
 逆に痛みは感じなくなる。

 そうなると、お迎えが来るのが早いでしょう。」

そのときもう父の死を覚悟していた
わたしは、
「とにかく安らかに逝かせてあげたい」
と、
涙がボロボロと流れました。

腎臓が動かなくなり、
その時透析をするかどうか。。

と放射線の先生は言いました。

わたしは「そこまでしなくてもいい」
と、思いました。

あの父に無理に
「ながらえる」はない、と
思いました。

放射線の先生はこうも
言いました。

「人間は
 「死」が近くなると食べれなくなる。

 そして徐々にやせ細り、
 亡くなっていく。

 死ぬときの理想の姿は
 やせ細った姿だ。」

発達した現代医学の
現場にいて、

この先生は、

本来の自然の営み「生」と「死」に。。

人間の「寿命」ということに。。

自然な素直な心で向き合っている
素晴らしい先生だな、と感じました。

この時父は
ガラガラにやせ細っていました。

今まであらゆる病気と闘ってきた
父は、

チューブだらけの姿で
生きていくのはもう嫌だろう・・
私も見たくない、と思いました。

その後担当の女医先生から、
いざというときに延命治療を
するか?

という問いが家族にありました。

本人ではなく、
まず家族に訊く。。

ということに
とても不思議に思いました。

「もっと生きていてほしい」

肉親を亡くすという
家族ならではのそのときの
感情は測りしれなく、

繊細、かつ慎重な
事柄です。

でも、わたしは
父に訊いてみました。

父は
「それだけはしないでくれ、
 意味のないことだから」
と、言いました。

父の意思を尊重しました。

でも、これが
我が子供ならどうだろう。。

ふと、思いました。



2013年4月22日 10:21

スタッフ雑記 20130420 「父・・Ⅱ」

ジジババを安曇野に
連れてきたのが一昨年12月13日。

母は少しづつ体も認知も良くなって
きたように思いました。

反対に父は徐々に張っていた気持ちが
緩んでいったんだと・・・
ー今になって思い返すとー

ご飯の時と、トイレ以外、
寝て過すようになったのが
昨年4月。

朝、突然起き上がれなくなって、
病院へ救急車で運ばれたのが
昨年9月7日。

起き上がれなくなって
まず父が言った言葉が

「世話になったな」

でした。。。。

このとき父はもう
「死」を意識していたのでした。

運ばれた病院は
「緩和ケア」のある救急病院でした。

そこで背骨に癌が転移していることを
本人、家族は知りました。

父の復活を信じ、
いつか大きな家を見つけ
引っ越そうね、と話していたわたしの
青図が崩れていきました。

「緩和ケア」
癌の父を持ちながら、
この言葉をこのとき
初めて知りました。

癌患者や家族の不安な気持ちを
色々なことで、ケア、サポートしていく
ことのようです。

父は前立腺の癌だったので
泌尿器科の先生が担当でした。

女医先生でした。

最初に運ばれたとき、
この女医先生がー勢いあって元気マンマンー
病室にきて、

病状を説明して病状確認のためか

いきなり、「失礼!」
といって父の肛門に指をツッコミました。

その後先生が去ったあと
父が「元気い~なぁ、いきなりだなぁ」
なんてそれでも愉快そうにして、

わたしもなんだか可笑しくて

二人で笑っていました。

観念のためか、
癌の転移したというはっきりした事実に

転移したら・・という不安が消えたせいか。。

変な話ですが、逆に父は穏やかに
なったように思います。

そしてバリアを張った父に
気持ち・・反抗していたような私も

死を間近に控えた父に、

その時から心を開き、寄り添えたように
思いました。

それまでの色々なわだかまりがなくなり、

父との大事な時間が流れていったのでした。



2013年4月20日 07:07

スタッフ雑記 20130419 「父・・」

真夏のような暑さの昨日と
うって変わって、

今日はとっても寒い
安曇野です。

近くの田んぼには、
水が張り出しました。

5月の田植えの前まで
しばらく「水鏡」が
楽しめます。

暖かくなり、体も少しづつ
動けるようになってきたので、

ジジババが使っていた我が家の
和室を整理しました。

ジジババがいなくなってから
そこは「開かずの間」になっていました。

元々なにも持たずにジジババは
来ていましたので、

わずかのものしか残っていませんでした。

父の遺品は物悲しさが漂っていて、
今まで向き合うことができませんでした。

押入れをあけると父が
いつも肩にかけて持ち歩いていた
ショルダーバックがありました。

持つと軽く何も入っていないようで、
でも、中をまさぐると、

健康保険証やたくさんの病院の
診察券が入っていました。

病気の問屋さんだった父・・・、
もうこれも使われることもない。。

など思いながらカバンの違うチャックを
開けるとそこには、

父が書いた、父の小さい頃からの病気の歴史を
書いた紙が入っていました。

そして癌の発症から今までの経緯も・・。

長い人生の中で
教員生活のこと、好きだった習字、短歌のこと、
妻、子、孫。。

それよりも病気のことに
想いを馳せる。。?

父はなにを考えていたのだろう。

そして・・・もう一つ見つけたものは、
手紙でした。

差出人は、「私」でした。

一昨年12月「もうご両親は2人で暮らすのは
無理だよ」

札幌の大事なお友達Sちゃんの電話で、

わたしはジジババを安曇野に連れて行くため、
札幌に行きました。

母はプチ認知、
料理もできなくなっていました。

父は自分がしっかりしないと、
という思いだったせいか(今思うと)、
かくしゃくと元気そうに見えました。

父は
「絶対行かん!」と言っていました。

その父を説得するため、
滞在中父に手紙を書いて
渡したのでした。

読み返すと手紙には、
「もう2人では冬を越せないのは
 わかりますよね。」

「子供が「お爺いちゃん早くおいでよ」
 って、言っていましたよ」

「迷惑かけるとか、思わないで、
 家族だから当然です。」

などなど・・
そのときの本当の父の思いがわかっていたら、

もっと思いやりのある手紙がかけた
だろうなぁ、なんて、今更思います。

でも、父はこの手紙を
大事に持ってきてくれていました。

頑固だった父、
こちらの心配の想いを
はねかえしていた父、

安曇野に来てからも、
安曇野の生活を楽しまず、笑わずいつも真剣な顔を
して暮らしていた父。

父は安曇野に来て
「良かったんだろうか」
「幸せなんだろうか」

そう思っていたわたしは、

その時ー札幌で母とふたりっきりの
生活が本当は父は究極に心細く
不安な気持ちだった。。。

安曇野に来て、
たくさんの家族とくらせて、
安心で幸せだった。。。

父のそんな気持ちを知ったのは
父が亡くなってからでした。。。



2013年4月19日 16:01

スタッフ雑記 20130411 「風変わりなバイト」

今朝起きると雪がうっすら
積もっていました。

季節はずれの雪・・。

開き始めた桜さんが
さむ~いと言っているようです。

昨年暮れから引きこもりになっていた
わたし、

そのとき安曇野の大切な
お友達Gさんから、

友人の会社で、1~2日
簡単な封筒詰めのお仕事の依頼があるけど
行かない?

って誘われました。

どこにも行きたくない、
誰にも会いたくない、
って、思っていたのに。。

そこは「行ってみたい」
と、ピンときました。

行ってみると
そこは

環境に関してあらゆる調査を
している会社でした。

会社といっても
いつでも川や山に出かけられるように
男性は作業服、

信州大学農学部の学生時代バイトにきて
仕事が楽しく、そのまま
就職している社員の方が多く、

自然が好きな人が集まっている。

どうりでなんか空気がいい。

今まで月2~3日手が足りなくなると
お呼びがかかって、出動していました。

ちょうどいいリハビリだ。

最初の仕事は
ポスターの発送。

環境省の仕事を請け負っているのだが、
環境省が若きハンターを増やす。。

目的でフォーラムを全国で開催。

そのポスターだ。

今、鹿や猪が増えすぎているとのこと。

実際狩猟をしている若いハンターの
講演を聴いたり、
ジビエ料理を食べたりするそうな。

動物が増えるのも環境破壊
などの色々なことだったり。。

そのことはどうなん?と
色々思いつつ。。

何百枚のポスターを数える。。

いつぞやは、
山に設置した無人のカメラに
収まった動物のチェックをした。

熊、きつね、見事な角の鹿、
野ねずみなどがたくさん
写っている!

なかでも設置したカメラが
珍しく思った猿たちが、

カメラのレンズを覗いていて、
画面いっぱい猿顔(笑)

先日は「虫とり」・・。

何箇所かの川でとってきた
水草、藻のなかに
何匹の虫がいるか

ホルマリン漬けになった
藻の中からピンセットで
虫を探し出す・・。

虫の種類でその川の水が
綺麗かもわかるらしい。

なんて地道な調査、そして
なくてはならないお仕事・・。

最初、「虫」ってきいて
ぎょ!と思いましたが、

やっているうちに、
さいしょ見えなかった小さいミジンコみたい虫を
発見できるようになったときには感激!

その日の夜。。
目を閉じると
まぶたにたくさんの
虫ちゃんたちがうじょうじょ。

天井からくもさんが
突撃してくる夢をみました~。



2013年4月11日 17:09

スタッフ雑記 20130404 「てやんでぇ!」

それからもう一つ・・・

私にとって大きな気づきが
ありました。

昨年暮れからずっ~と心身
弱まっていた中、

3月半ばにぎっくり腰に加え、
ひどい風邪に罹りました。

1週間寝込んでいたときのこと・・・。

姉と実家のある後始末のことで
やりとりしていたときに、
ある感情がわきでてきました。

きっかけは両親のある行いに対し、
「なんてひどい親だ!」
っていう感情が吹き出して
きたのでした。

どんな行いか。。。、
とか、
産んでくれた親に対して。。。
とか、
どんな事柄も自分のために
起きること。。。
とか、

そうゆうことは関係ありませんでした。

「吹き出す」ことが
大事だったんです。

それから芋蔓式に
いろんな人との関わりの中での
我慢してきた感情が、

ーその時は自分では我慢だとは
 思っていなかったー

吹き出してきました。

「内観」
相手の立場にたって
考える、という反省
ー自己を見つめていくと

今まで恨んでいたことや、
怒っていたことが、すべて自分の
ワガママからのことだとわかる。
・・・そして相手に感謝できる。

これは自己の内面を開く
大事な真我探求の
貴重な行為だが、

それ以前に気づかなければ
ならないこと。

そのとき自分はどんな
「感情」だったのか。

何をいっても聞き入れてもらえない
環境にあったわたしは、

いつしか言う事も諦め、
感情すら確認することもなく、

すぐに心の引き出しに
しまいこみ、鍵をかけていました。

そして自分の想いがあると、
苦しいから・・
想いを・・
想わないように・・・
・・自然としていたのでした。

だから、自分で自分の感情が
わからない。

わからなんかった・・。

そのとき、どう想ったのか。

怒ったり、悲しんだり、喜んだり、
恨んだり・・・。

感情があってからの「内観」だ。

隠したままでは・・、

いえ、自分で自分の感情を認識出来てないうちは、
いくら内観をしても

苦しいまま・・ではないかしら、
と、思いました。

「てやんでぇ!」
「ばっかばかし~」
「なんなの!」
「ばっかじゃない!」

腹立しい感情MAXで
布団にくるまっていました。

そして・・・、
「なんかわたしに文句ある!?」
「でっ、なにか?}
「わたしは私だ!
 それ以上でもなく、それ以下
         でもない・・。」

・・・あっ・・どっかできいた
        フレーズ。。

自分で作った殻が
剥がれ落ちたように
思いました。

最後に思ったことは

・・・なんてわたしは

・・「偽善者だった」

・・・ということでした。

いい人ぶって
涼しい顔をしていました。

その時その時の感情を
自分でかくにんして・・

それからその感情の
処理をする。

「嫌だなぁ~」
「嫌い!」
「それ、食べたい」
「そうしたい」

自分を表現する。。。

当たり前のことだが
できていなかった。

日常茶飯事のことが・・。

もっともっっと
自分は自由になった気がしました。

もっともっと
なんだか楽しくなってきました。

でっ、こんな私に
なにか・・。



2013年4月 4日 07:48



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